ログインないのだ。
あの物語を今世で読んだ記憶がない。有名だし大人気だったはずなのに前世のことを思い出すまで私はあの物語を知らなかった(当然、持っていませんわ)。
生まれ変わっても私の好みはあまり変わっていなかったらしく、やはり物語が好きで沢山の本を持っていた。
まぁ金持ちであろうと、なかろうと貴族の姫の楽しみは限られている。
乳母子を始めとした女房達とおしゃべりをするか囲碁を打ったり貝合をするか物語を読むか、である。囲碁や貝合は苦手だから、そうなると女房達とおしゃべりか物語を読むかだが話をするにしても話題が必要でしょ?
お父様の、
「孔雀うるせー!」 「帝の猫がまだ墨が乾いてない書類の上を駆け抜けていったから書き直しになった!」 「内裏に出た狐を警護の武士が特に狐を射殺した武士を処罰しろ、なんて普段狐狩りをしてる貴族がどの口で言ってるのよって思いません?
「トメ、読みたい物語があるのだけど……」
私(左大臣の大君の方)はトメに言った。 身体は大分良くなり、もう起きていた。「お加減はよろしいのですか?」
トメが心配そうに訊ねる。「持ってないからお父様に手に入れて下さるように頼んでほしいの」
「分かりました。どのような物語でしょうか?」 トメの問いに私は思い出せる限りの話をした。何しろ物語には名前が付いていない。
話一つ一つには章題がある(こともある)のだが物語自体には名前がない。どの物語にも。言葉を尽くして説明していると、
「ーーーーー!」 大きな鳴き声に遮られた。孔雀である。
そう、うちにもいるのだ。孔雀が。
それはともかく――。
私の説明を聞いたトメが考え込む。何しろ私も前世を思い出すまではそんな物語は知らなかったのだ。
もしかしてあの後、結局普通の継子いじめ譚として終わってしまったから後世に残らなかったのだろうか?
いくら説明してもトメも他の女房達も私の言っている物語には心当たりがないらしかった――噂すら聞いたことがないようで、そうなると手の打ちようがない。
数日後―― 「姫様、北の方様がお呼びです」 トメの言葉に北の寒くないのかしら……?
「この子は母親が亡くなったそうなのでうちで引き取ることになりました」
お母様が不機嫌な声で言った。おそらく母親というのはお父様の他の妻なのだろうからお母様の機嫌が悪いのは仕方ない。
継子いじめ譚が何故沢山あるかといえば親を亡くすのは珍しくなかったからである。
子供は生みの母親に育てられるものだが、その母親が亡くなると父親が別の妻に育てさせる。
この別の妻というのは大抵の場合、北の方である。
北の方というのは財力がある妻だから他の女性が産んだ子供を養育できるだけの余裕があるからだ。でも私達には親のことは関係ありませんわ。
私は物語の中で姫君をいじめていた〝女〟のようになる気はありませんもの。「お母様のことはお気の毒だったわね」
「お姉様、どうかよろしくお願いいたします」 新しい妹が頭を下げる。「こちらこそ」
私がそう言うと、 「部屋に戻りなさい」 お母様が新しい妹に言った。「はい、失礼致します。ツユ、行きましょう」
妹が乳母子らしい侍女にそう声を掛ける。一瞬、何かが引っ掛かったものの思い出す前に孔雀が鳴いた。
孔雀の鳴き声に新しい妹が振り返る。
「猫がいるんですか?」
新しい妹の言葉に、 「まぁ! 猫を見たことがありますの!?」 私は思わず身を乗り出した。猫というのは帝も飼われていて日記に書くくらい可愛い生き物だそうですのよ。
私は孔雀より猫の方がいいですわ!(もちろん、おほむの香炉よりも)「え、ええ。幼馴染みが飼っていましたので」
妹が答える。「まぁ羨ましい!」
「今の鳴き声は猫では……」 妹が戸惑ったように言った時、にゃ~ぉ……。
また孔雀が鳴いた。
「鳴き声って、これ?」
私の問いに、 「はい」 妹が戸惑ったように頷く。「あれは孔雀よ」
「孔雀……孔雀は叫び声みたいな大きい声と聞いていましたが……」 「そう言う時も……」 「ーーーーー!」 私の言葉を遮るように孔雀が叫んだ。「まぁ……」
妹が目を丸くする。「
「それでは失礼します」
新しい妹が出ていくと、 「お母様、あの子は中の君ですか?」 私はお母様に訊ねた。「そんなことはどうでもよろしい」
「よくはないでしょう」 私は言い返した。今の二の姫を二の姫、新しい妹を中の君と呼ぶわけにはいかないのだ。
どちらも次女という意味で本当の名前ではないから男性が送ってきた
夫がいながら他の男と通じたというのは離縁の理由になり得るから、殿方がどの姫のところに通っていたのかの区別は必要なのだ。
「では、あの子は中の君で。そんなことより……」
お母様の顔付きが険しくなったのを見て身構える。なんで怒ってるのかしら……。
読みたいと言った例の物語が何かいけないものだったとか?
中宮様と左大臣家の暴露話だし。
私が死んだ後に書かれた部分に何か良くないこと――例えば帝か中宮にとってあからさまに不都合なこと――が書かれていて人目に触れさせてはいけないことになったとか。
それならトメ達が知らなくて当然かもしれない。
私達が生まれる前に闇に葬られた物語なら聞いた事がなくて当然だし、読みたいと言った私に怒ってもおかしくない。「あなた、勅撰和歌集の歌はどの程度覚えましたか?」
お母様の問いに顔が引き「いい歌が詠めるようになったのでしょうね」
お母様が言葉を重ねる。「ど、どうして突然……」
私が動揺を隠して訊ねると、 「春宮様とあの子……中の君は幼馴染みなのです」 お母様が答える。「……話がどう繋がっているのか分からないのですが」
私が聞き返す。「あなたは春宮への入内が決まっているでしょう!」
そうだった……!
忘れてた……!
私は春宮に入内することになっていたんだった……。
父は私が産まれた直後に内々にだが春宮への入内の話を決めていた。
一応入内の許可――多分そのうちに正式に決定されるだろう。
そういう意味では私は産まれた時から春宮の婚約者と言えるのだ。けど――。
春宮には嫌な思い出しかない。
少し前に春宮が
夜中に二の姫の
「あの、姫様の……二の姫様の寝所に春宮様が……」
二の姫の乳母子の言葉に、 「は?」 思わず聞き返した。私のところなら分かる。イヤだけど。
内々とは言え入内が決まっているから。でも二の姫?
まだ裳着というのは成人の儀式である。
それがすんでない妹はまだ子供だ。「春宮様に、ここは大君の部屋ではございませんと申し上げたのです。大君の寝所にご案内しますと」
それも迷惑なんだけど……。
「ですが二の姫のところに来たのだと……」
「はぁ?」 私は思わず声を上げた。子供がいいなんてあり得ない!
私は立ち上がると二の姫の寝所に向かった。
「あ、あの、私……お姉様は……」 部屋の中から二の姫のうわずった声が聞こえてきた。ここまで来たものの、寝所に乗り込んで春宮を叩き出すわけにはいかないし、かといって自分の寝所に来てくれなんて誘うのもイヤだ。
裳着もすんでない子供に手を出そうとする男など……。
その時、庭の向こうの方で警護のために焚かれている松明の光が目に映った。
「火事よ! 早く逃げて!」
私は二の姫の寝所の中だけに聞こえる声で言った。もし後で怒られたら松明の火を火事と勘違いしたと言って押し通そう……。
夜中なんだし寝ぼけて見間違えることはありますわよね?
「なんだって!」
春宮が慌てた様子で飛び出してきた。私がとっさに後ろに下がるのと入れ違いで誰かが春宮の目から私を隠すように前に立った。
深夜――「いかにせん 山で聞きつる 呼子鳥 春の宮へと おとづれんかな」 外から頼浮の声がした。 春宮が来たのだろう。もちろん中の君のところに。 忘れてましたけど今日のお客様方の中に春宮がいたんでしたわね。 宴が終わったから中の君に会いに来たのだ。 頼浮に――というか帝以外の人に春宮を追い返せるとは思えないが一応通していいか聞いてくれてるのだろう。 私は妻戸を軽く叩いた。 頼浮はすぐそこにいるはずだ。「春宮様は中の君のところに通して構わないって言ったはずよ」 私が小声で囁く。「春宮はお通ししたのですが少納言がこちらに向かっているのです」「よく招待したわね」 てっきり出入り禁止になったのかと思ってましたわ。「別の少納言です」 頼浮が私の考えを察して言った。 少納言というのは――というか各官職の長官以外はほとんどがそうなのだが――何人もいるのだ。 だから官職名の前に『何々の~』とつけて区別するのである。「二人は部屋を出たんでしょ」 中の君がいないのなら別に部屋に入られたところで構わない。「いえ、今日は中の君の母屋で……」「あら……」 つまりこのままだと春宮と少納言が鉢合わせしてしまうのだ。 だから私の判断を仰ぎに来たらしい。「…………」 私は考え込んだ。 これは使えるかも知れませんわ――。「いかがいたしますか?」「いいわ。少納言をそのまま行かせて」「……よろしいんですか?」 頼浮が驚いたように言った。 驚くくらいなら最初から追い返せばいいでしょうに。「春宮様と中の君が一緒にいるのを見たって少納言が言い触らしてくれれば入内させるしかなくなるでしょう」
「私は必要に迫られても詠めるかどうか……」 中の君が悩ましげに言った。「…………」 さすがにそれはそれで少々問題がある。 女性にとって楽器と歌は絶対に必要な教養なのだ。 殿方は苦手でもなんとかなるのだが女性は歌が出来ないと婿取りの時に困る。 最初のうちは親が代筆すると言っても最後には自分で懸想文に返歌をしなければならないのだ。 意味もなく詠むほどではなくても、必要に迫られて詠めないのはダメだろう。 特に入内したら何かと詠まなければならなくなるはずなのだ。 というか入内できなかったら貴族の婿を迎えることになるのに歌が詠めなかったら困りますわ! 数日後―― 朝早くに頼浮の歌が聞こえた。「君が振る 袖に触れにし 朝露は 我が涙をや 思ひおこせと」 後朝の歌(朝、恋人のところから帰ってから贈る歌)のようにも聞こえるが、おそらく『触れにし』と言いたいのだろう。 どうやらお父様が死穢に触れたらしい。 となると潔斎のために邸にいるはずだ。 私はお父様の元へ向かった。「お父様、今はまだ中の君の母君の喪中ではありませんの?」 私はお父様と御簾越しで向かい合って言った。「そうだが、お前には関係ないだろう」「お父様と中の君にはあるでしょう」「それはまぁ……」「私、心配ですわ」「姫様、気にしすぎですわ。怨霊なんて」 打ち合わせ通りトメが言った。「怨霊!?」 お父様が目を剥く。「そうね、そうかもしれないわね」 私がトメに答える。「どういうことだ!?」 思った通りお父様が食い付いてきた。 怨霊というのは恐れら
夕方、部屋に戻った私(左大臣の大君の方)はトメに今後、中の君宛の文は私に届けさせるようにと指示した。「北の方様のお耳に入ってしまったら……」「手習いや歌のお稽古で紙が沢山必要だと答えればいいわ」 字にしろ歌にしろ女御になるなら上手ければ上手いほどいいのだ。 勅撰和歌集というのは実力で選ばれる(帝以外)。 例え妃であろうと忖度では入れてもらえたりはしない。 にもかかわらず入集している妃は多い。 それくらい歴代の妃達は皆、優秀なのだ。 当然、私も次に勅撰和歌集が作られることになったときは一首くらいは入集できるような歌が作れる方がいいに決まっているのだから手習いや歌のお稽古に紙を沢山使うと言えばお母様は納得するはずだ。 帝にしても例外的に入れてもらえると言っても優れている歌だけだ。 どうしても自分の歌を勅撰和歌集に入れたくて、こっそり他の人の歌を抜いて自分の歌を入れてしまった帝がいるくらいである。 それを周りに知られてしまっているというのも中々恥ずかしいと思いますけど……。 まぁもう崩御されているからいいのですけど……。「姫君の亡き者にしたい誰かが蛇を箱に入れて送ってきたのです」 キヨが物語を読んでいた。「なんてひどい!」「怖いわ! 私、蛇嫌い!」 二の姫と三の姫が口々に言った。「蛇が失敗したと分かると今度は食事に毒を入れました。 毒を入れたのが自分だと分からないように全員の食事に混ぜたので邸の人間は皆、寝込んでしまいました。 幼かった一番下の妹君は助からず……」「なんですって!」 私(左大臣の大君の方)は大声を出して跳ね起きた。「姫様!?」 トメや他の女房達も飛び起きて集まってくる。「いかがされましたか!」
私(左大臣の大君の方)は目を覚ました。 せっかく物語の夢を見たのに参考になりそうなことはありませんでしたわ。 箏のお稽古をしていた中の君の手が止まった。 中の君の箏の腕は上達しているものの、まだ人前で披露できるほどではない(あれからずっとお稽古していたんですのよ)。「やっぱり、私には……」「後! 落ち込むのは後にしましょう! そういうのは宴が終わってからにしないと間に合いませんわ!」 中の君はしょっちゅう落ち込んでは手が止まりそうになる。 だが落ち込んでいても手を動かさなければ間に合わない。 中の君の年なら習い始めて七、八年くらい経っていなければならない。 それが習い始めて二、三年の四の姫より下……上手くないとなると、ほとんどお稽古していなかったという事になる。 とても一月や二月の練習では……。 これでは中の君が恥をかいてしまう。 中の君の演奏は北の対にも聞こえているはずなのにお母様はやらなくていいとは言ってこない。 宴の席で中の君は箏が下……上手くないと周知されてしまったら中の君を入内させようと言い出せなくなる(言ったところで認めてもらえませんわ!)。 どうしましょう……。 とてもではないけれど四十の賀の宴で披露できる腕前ではない。 お稽古を続ければ上手くなりそうではあるから入内(出来るようになったとして)までにはなんとかなりそうなのだが宴には間に合いそうにない。 中の君が溜息を吐いた。「お姉様はなんでもお出来になるのですね。それに引き換え私は……」「お稽古しただけよ」 何しろ幼い頃から、いずれ入内するのだから妃として恥ずかしくないようにと一通りやらされてきた。 入内してすぐに中宮に|冊立《さ
「あなたの父君以外にですか?」 頼浮が答える。 左大臣は上司というと少し語弊があるのだが少納言より上というのはその通りだ。 左大臣は常設の官職の中では一番上なのである。 摂政、関白、太政大臣は左大臣より上ですけど臨時なので必ずいるわけではありませんのよ(今は太政大臣は置かれていますけど)。 私は頼浮に、物語の主人公が上司の呼び出しで女性の元に行かれなかった物語の話をした。「お父様が娘の婚姻の晩に宴に呼んだりするわけないでしょ」 というか、宴だと言って左大臣邸に呼ばれては困りますわ。「宴では嘘だと分かった時点で引き返してきてしまいますよ」 頼浮はそう答えてから何かを思い付いたように口を噤んだ。「……今夜来るのを止められなかったら明日、試してみます」「今夜は無理なのに明日ならなんとかなるの? 何か手があるってこと?」「道に動物の死体を置いておきます」 死体は死穢といって見ると数日間、潔斎のため自宅にいなければならない。「そのための牛車でしょ」 牛車の中と外は別の空間だから死体の側を通っても死穢に触れたことにならないとされているのだ(見なければ、ですけど)。 貴族がいちいち牛車で移動する理由の一つはそれなのである。「そうはいっても死体は避けますから道を変えます。行く先々の道に置いておけば……」 死体を乗り越えていくわけではないのなら避けなければならない。 広い道ばかりではないのだから横を通れないのなら引き返して別の道を通る必要がある(牛車というのはちょっとした小屋くらいの大きさがあるので狭い道だと避けられないことがありますのよ)。 そのため上手く考えて通り道に置けばかなりの遠回りになる――朝までに左大臣家に着かないくらいの。「今夜は?」「牛車に細工します」 頼浮の言葉を聞いて任せることにした。
「トメ、これを春宮様に。左大臣家の姫だと言ってね。中の君ではなく」 私は歌を書いた文をトメに渡した。 あの歌の贈り主が他の人なら春宮は『左大臣家の姫』は私だと考えるだろう。私のことを突然わけの分からない歌を贈ってきた変な女だと思うかもしれないが。 あの歌が春宮なら中の君からだと思うはずだ。 筆跡が違うがそれは私の代筆だと言えばいい。最初のうちは親などが代筆するものだ。「申し訳ありません、お姉様。ありがとうございます」 中の君がすまなそうに頭を下げる。「いいのよ、私は内裏になんて行きたくないから」 中の君が春宮と結ばれてくれれば双方が幸せになれるわけだし。「春宮様も同じことを仰っていました」 中の君が遠い目をしながら言った。 おそらく昔、聞いた話なのだろう。 今は春宮は内裏に住んでいるわけだし。「そう……」 私はなんと言っていいか分からないまま頷いた。 まぁ春宮がいやいや内裏に住んでいるのなら尚のこと中の君が側でお心をお慰めしてあげた方がいいのだから入内は中の君の方がいいですわよね。 春宮にとっても中の君にとっても――。 決して入内を押し付けようとしているわけではありませんわよ。 その夜――「漁火の ほのかな灯り 篝火と 誘ひと紛ふ 迷ふ虫かな」(灯りに誘われた虫が迷い込んできました) 外から随身の声がした。 他の随身に言っているのでなければ私に言っているということになるけど……。 誘われた? 名前を聞いたから勘違いしたのかしら……? 私が無視して寝ようとした時、妻戸を叩く音がした。 呆れた……。 図々しいにもほどが&hel